昭和48年01月08日 朝の御理解
御理解 第4節
「此方金光大神あって、天地金乃神のおかげを受けられるようになった。此方金光大神あって、神は世に出たのである。神からも氏子からも両方からの恩人は、此の方金光大神である。金光大神の言うことにそむかぬよう、よく守って信心せよ。まさかの折には、天地金乃神と言うにおよばぬ。金光大神、助けてくれと言えば、おかげを授けてやる。」
確かに教祖様は私共の恩人である。金光様のおかげで金光様のおかげでと、私共が申します様に天地の親神様からもやはり、金光大神あって神が世に出たと仰せられます程しでございますから。両方からの恩人は此の方金光大神だとこう仰せられる。それ程しのお方の事ですから、その金光大神の言う事に背かぬように良く守って信心せよと。ですから結局は、金光大神の言われる通りの良く言う事を聞いてと言う事になります。
そこで金光大神ご自身の信心から体験を通して、御教え下さったり又天地金乃神様から、直接お知らせを蒙られた事を、この様に話にして残しておって下さるのですから。その話を良く聞かせてもろうて、信心を身につけて行くという事。そこで例えば教祖の神様が、御在世の時教祖の神様のお膝元に、お引き寄せを頂いて何かと御教えを承り、何かと御神意をお伺いしながら、信心の稽古をさせて頂いておるという時には、金光大神の言われる通りのことをすれば良いという事であるのですけれも。
もうその教祖の神様は、おられんのでございますからこの世に。ただ残っておるのは、御教えだけなのです。ですからその御教えと言うのが、実に簡単と言えば簡単です。これ程しのおかげの受けられる信心。言うなら宗教ですけれども言うなら、たったこれだけが御教えなんです。教典と言うたらこれ一冊これだけ。百何十条の御教えが有るだけ。だから、言うなら細かに分けて、さぁこういう場合どうしたら良いかと言うような事が、漠然として来るのです。確かにこれは、暗記してしもうておりましてもです。
中々それはそういう深さと広さを持っておるのですけれども、私共はそこはそう頂きこなしきっていないんです御教えを。それを例えば合楽の場合など、ここ二十数年間この事だけを皆さんに聞いて頂いた。この御教えの内容をお取り次ぎさせて頂いて来た。ですからこの御理解四節なら御理解四節でも、もうどれ程頂いたか分らんのです。それでも尚且つ愈々の時には、右にして良いやら左にして良いやら分らん時が有るでしょうが。これ程しの教祖様の御教えを。
広く深く何十年間頂き続けて居りましてもです。その都度都度にです。さぁどういう御教えを持ってきたが、頂いたが本当か分からない時が勿論、実意丁寧神信心と仰せられますから、真の限りを尽くして、実意の限りを尽くさせてもろうて、それに当たって行くとこういう訳なんですけれども。合楽で皆さんおかげを受けて居られる。もう日々が今日は、こんな事なんだが、これは右にしたが良いだろうか、左にしたが良いだろうかと言う事すらも、迷わなければならないような、それは日頃頂いておって。
そん位の事が分からんかと、すぐ答えが出てくるじゃないかと言う様な場合も有りますけれども。やはり御神意を伺わせて貰うと、本当に私どもの思いとは、全然違った答えを頂く様な場合が有るでしょうが。金光大神の言うことに背かぬようと言う事はです、その金光大神の言う事に背かぬように、段々信心をさせて頂いて、まぁ完璧という事じゃなくても。そのお手代わりをさせて頂いておる者の言うことを聞くという事になるのじゃないでしょうか。金光様の御教えを元にしてです。
此処で言うならば、私、大坪総一郎の言う事に背かぬように、良く守って信心せよという事になるのじゃないでしょうかね。そこで私は、皆さんに聞いて頂きたいと思うのはですね、全ての事に、何事に依らず、時節と言うものが有るという事です。吉井の熊谷さんの所の娘さん、いほこさん、兄弟達は、沢山おられますけれども、みんなそれぞれ、良縁を得られて、おかげを頂かれた。ところが、一番下のいほこさんが、幾つですかね、もう四十位になられますでしょう。
色々と縁談もあったんですけれども、所謂縁遠うかった。それがおかげを頂いて、それこそ、願っても叶わぬ様な所からのお話があって、トントン拍子に話が進んだ。昨日が釘茶と言いますかね、お茶が参りました。昨夜もお礼に出て見えてから、お届けをなさっておられますけれども、本当に普通で言うならばです、親としてもう眠られん様な事ではなかったろうか。神様にお任せし切って、親先生の仰る通りにさせて頂いておると言うので、必ずおかげになると、必ずおかげが頂かれると確信して。
今日までおかげを頂いて来ておって、もう全然それに対する所の、心配をしないと言うたら嘘になりましょうけれども、眠られんようにその娘の事を考えると言った様な事は、もうさらさらなかった。熊谷さんのご兄弟が、幾らもおられますけれども、今度という今度は、「姉さん、やっぱりあなたが信心しなさるけんで違いますと。もうこれは、本当に、金光様のおかげですよ。」と、今まで神様のことを反対したり、悪口を言うておった兄弟達がみんな口を揃えておかげだ。
おかげだと言うてくれます。と言うお届けを昨日なさっておられます。あれがもうどうでしょうか。もう貰うてさえ貰うなら、どこでんよかち言うごたる風で、いうなら急いだり、色々しとったら、こんな良縁を得る事は出来なかったでしょうけれども。神様の言うことに背かぬよう、良く守って信心をされた所にです。願っても叶わない様なおかげを受けられたんじゃないでしょうかね。
そんならば例えばこの事一つでも、教祖様がこう教えておられるからとだけじゃ、とてもとても言うならば、二十歳位から四十歳までを二十年間の間をです。教祖様の御教えの何処を守って言ったらよいか分からない。その都度都度に話もある御神意を伺う。そして、右だ左だと話を受けて行く又流して行く。所謂神様任せにならせて頂く。所謂親先生任せにという事になってくる。ですから熊谷さんの場合は、金光様と言うてお縋りをするよりも親先生と言うてお縋りをした方が、おかげが早いち言われます。
理屈は同じです。そんなら金光大神が教えられた御教えを、二十年間守ってというて守るという事は、いつも守っておる訳です。話を聞いているんですから。けれども具体的に言うてです、さぁ今日は右にしようか左にしようか、こういうあちらから話があっていますが、これはどうさせて頂こうかと、お伺いをすると言う事は、只金光大神だけだったら出来ないでしょう。これはそんならここに御参りしておられる皆さんが、そういう体験をお持ちだと思うのです。
いかにそんなら、親先生の言われる事に背かぬように、良く守って信心をしなければならないかと言う、例えばこれは、熊谷さんだけの事じゃ有りませんよ。先日から吉井の杉さんのお話を致しましたり、綾部さんのこの頃からのお話を聞かせて頂いてから、思わせて頂く事はようもようも、そのくらい馬鹿になって、親先生任せになったのと言うくらいに任せきった。そこから実はどうにも出来ない問題が、もうそれこそ思いもかけないおかげの方へ進展していく変わって行く。
なるほどもう是から後どのような事があっても、金光大神の言う事に背かぬようにして行けば良いと言うことになる。親先生の言われることに、背かぬようにしていけば良いと言うことに腹が決まる。そういう生活を私は信心生活と言い。金光様の信心を頂いておる者の、これは有り難さで有り、又は合楽に御神縁を頂いておる人達の、有り難さだと思うですね。さぁそれは困ったの、どげんしたなら良かろうかと、言うことが無いでしょうが、ここの場合は。
そうですか右ですか、左と思うとっても右と仰りゃはぁそうですかと言うて、右を守ってきたでしょう皆さん。私は今日はそういう意味でです、金光大神の言うことに背かぬようにと言うことを聞いて頂きたいと思うのです。成り行きを大切にしてお行きなさいよ。と、その都度に言えば、それだけの事だけれども、その都度都度の成り行きの問題の性質をよく見て、然も御神意を頂いて、成り行きを大事にして見えたでしょう。そこで最近は、御事柄という事が言えれる様になった。
成る程全ての事が、神様の御働きの中にあっての事であるから、いわゆる御の字をつけなければおられないとして、事柄の全てに御の字をつけて、御事柄として尊び畏こんで頂いて行く日々。そういう信心をいわば何十年間、私と共に稽古をして見えた訳であります。言うならば、親先生の言う事を聞きながら、今日まで信心の稽古をさせて頂いた。そこでです、最近では今度は五つの願いと言うことに、信心が大変な飛躍を遂げて来た。今までとは全然違う。例えばお参り一つの上にでもそうです。
こうして寒修行が始まる。成る程昔から家族を挙げて、お参りをなさると言う方達も有りましたけれども。もう兎に角言わずに黙って祈って、無理に言わずにという事だったのが、この頃は無理にでも頼んででもと言うような、もう大変な変わり方なんですよね。今合楽で言っておる事は。大体私自身がですその地区地区の、例えば昨日一昨日でしたか、秋山さんに私が頼みました。北野地区にはあれだけ熱心な人達が多いのに、寒修行になってまだ参ってこない。誰にも言うて下さい。
彼にも話して下さい。出来んなら電話だけでも良いから、架けて下さいと言う様に頼む。そこで秋山さん頼まれた所を、ずっと回られるから明くる日からちゃんと皆んなが、お参りをして来る。それを例えば親先生の言われる事だからとして頂く。言う事を聞きよる訳です。久留米にお商売の事でやらせて頂きましたら、秋山さんは単車でおいでられる。そこをちらっとこう行きすり会うたのが、江口の相園さんであった。
はぁあの方ににも言うとかにゃと、行き過ぎたけれどもその後をひっくり返って追うて行って、今こうこう寒修行が始まっとるけんで参って下さい。と言うてわざわざ言いげ行った。そん時に秋山さん感じられたら、もう親先生から頼まれとるばってんから、もうよかよかと言う様なことが私の欠点。此処は一つまぁ一辺後帰りしてからでも、相園さんに、伝えとかなければと思うて追いかけて行った。
そしたらそら本当にすんまっせん、お参りするどこじゃありまっせん、と言うて相園さんは言われたが、丁度そこまで帰って来た時に、昔のお得意さんの事をちょっと思い出した。その近所にある事を。それでひっくり返っって来たついでに、昔のお得意さんの所に寄らせて頂いたらおかげでそこで、又商いが出来たと言う。これはまぁおかげなんです。親先生の言うことに、背かぬようにという事は、それを実意で頂くという事は、その様なことではなかろうか。
簡単な事ですけれども以前の秋山さんならば、それはおそらく言えない。いや言えないじゃなくて、もうよかよかじゃったろうと思う。言われた所にずっと言うて回ったり、電話をかけたりだけはするけれども、わざわざ久留米の市内でしかも会うた時にです、片一方は歩いてお出でられとるか知らんが、こちらは単車ですから。そういう所にもです親先生が言うておられる事。親先生から頼られたとして私はそれを実行して行く事だと思うんです。そこには早速そう言うおかげがあるという事もさる事乍らです。
それが、おかげを頂いていく所の時節と言うものを、いわゆるバッチリと受け止めて行くことになるのです。昨日は総代会でしたからご主人の秋山さん、参って来てけれども他所にはこうやって、何処にでも頼まれてから、言うても回ったけれども、主人にはなかなか言い難くかち。そんなら私が今日総代会に参って来なさるけん、私から頼んで上げようち。と言うて昨日総代会の後で頼みました。そらチャット参って来とりなさる。頼んだから参ってくる。
はぁ参りが多かと言う事ではなくて、参ってきて貰わなければ、渡されない事が有るのです。例えばほんなら、今日の御理解で言う事を聞いて貰わなければ、おかげの受けられないことがあるのです。今五つの願いに皆さんが取り組んでおられる。しかしこの人達だけは、もう当然言う事を聞いて、実行しなさるに違いはないと言う方達が、まだ沢山全然言うことを聞かない人達が有る。寒修行にすらまだ出てこない人達が有る。言うなら合楽の中心と言われる様な人達が、その事を言う事を聞こうとしない。
残念ですね。言う事を聞くという事。そう言う事をしよって、例えば如何に商売が忙しいからと言うて、商売に打ち込んでるからと言うても、それでは肝心要の時節を無くするのです。それは一生一代取り返しのつかない様な事にすらなって来るのです。小倉の初代の時分のお話ですけれどね。四神様二代金光様の御時代に、大変おかげを受けられたご信者があった。東京の歌舞伎役者で、中村駒之助と言う方です。宇都宮の吊天井と言う、新作物を上演中にですね。
吊り天井と言うのがあるでしょう、体を宙吊りにしての、お芝居をなさっておられる時にですね、下へ落ちられた。そして体が萎えて役者としての生命を無くされたという時に、金光様のお話を頂いて、四神様のお取り次ぎを頂いてから、立派な健全な又役者として立たれる様な、おかげを受けられたと言う方なんです。四神様のお取り次ぎを頂いて、信心の有り難さが、愈々分からせて貰うて、もうそれこそ信心第一主義で、段々おかげを頂かれて、とうとう最後には、ご本部の方へ居を構えられた。
立派なお家を建てられた。そして俳優業を辞めて、金光様の色々と御用をなさる程しにおかげを頂かれた。もうそれこそ四神様のご寵愛を一身に受けられたと言う感じで有ったそうですね。ですから四神様の書かれた様な物が、岡本家に一番沢山有ったと言われる位の御寵愛を受けられた。それから四神様がお隠れになり、三代金光様になられた。その時分なんです。ご本部へ御参りをなさった桂先生が、駒之助さんの所の前を通られる時に、神様からお知らせがあった。
「岡本駒之助徳切れ」と言うお知らせを頂かれた。人間は何が一番恐ろしいと言うても、徳が切れるという事が一番怖い。そこで駒之助さんのお家に寄られた。もうそれこそ、紫檀黒檀の茶箪笥を背中にして、紫檀の長火鉢の前に座って、玉露をすヽり乍らと言う程しの、結構な身分でおかげを受けられ、生活をなさっておられた。そこで懇々と徳切れの怖いことを話されて、貴方はあれ程しの四神様の想いが、かけられておられた方だから、貴方はどうでも道の教師として、こげな安気安穏な事では出来んですよと。
道の教師として、おかげを頂きなさいと言うて、極力勧められたけれども、それに耳を貸そうとなさらなかった。広前にお出でられてから、三代金光様に、その事を、金光様、世の中には、後ろから津波が、一呑みにしようと言うような状態の事を、気がつかんでおる氏子がございますなと言うて、ご挨拶を申し上げた時に、金光様がね「あヽ、あれか、あれは、もう駄目じゃ」と仰ったそうですよ。
いかに例えば信心は止めとらんとか、信心はしていると。けれども神様の言うことを聞かずに時期を失したら、そういう事になるのです。金光様はちゃんとその事は、誰々の事とご存じであった。あヽあの氏子かあの氏子はもう駄目だと仰った。それまでには、どの位、神様からああこうと、言われなさったか分からないのです。けれども神の言うことを聞こうとしなかった。
それから間もなく、東京の取引の銀行が倒れましてね。頼りにしておられた財産がなくなってしまった。それから慌ててです、お道の教師を志されて、釜山に布教に出られる事まで、段取りが出来たんですけれども。それこそ事柄が全て、互い違いになって、とうとう布教に出られなくなられ、それから、病を得られる事になり、亡くなられるという事になった。徳切れも怖いですけれども、時期を失するという事は、その様な事なんだ。そういう時にです、だから時期を失しない、おかげを頂かして貰う。
例えば、今日、熊谷さんのお話をさせて貰うたがです。その例えば、十何年間の間ですね、婚期を失しられたかに見えましたけれども、その間に、熊谷さんが頂かれたおかげ、その間に、おって貰わなければ出来ないという事。いほこさんにしても、熊谷さんにしても、そういう神ながらな神様の御働きを頂きながら、しかも信心のない兄弟達迄が、どこからどう見ても、姉さんこれは、おかげと言わなきゃおられん。
これは金光様のおかげ。やっぱり貴方が熱心に信心しなさるからと、言われる程しのおかげになってきた。しかもその間をです、まぁだ娘がこんなじゃからと言うて、不安とか心配とか、眠られないと言った様な事もなしに、今日迄おかげを頂いて来た事は、親先生の言われることに、背かぬ様に来たという事が、第一の、おかげの元であったという事になる。時期のお話が出ましたから、この時期と言うのはね。
おかげを頂くという時期の事もそうですけれども。これは昨夜の御理解に頂いたんですけれどもね。あるお道の教師に、ならなければならない、なる事になるんでしょうけれども。その方の事の、色々一身上のお届けがあった。昨日の午前中でした。そしてその事を、神様に、私はお願いさせて頂いておりましたら、座り株を頂いた。金光様の先生と座り株は、座りの良いのが良いのだと言われておる。もう金光様の先生で、座るとば厭うごたる、金光様の先生じゃ、もう御比礼は立ちません。
座りの良かつでなからにゃいけん。もうこけ座ったが最期、ここに根が生えたようにです。そういう気持ちで、御用の出来る先生のところでなからなきゃ、人は助かりません。もう信者が参って帰ったら、つう比礼は立ちませんし、人も助かりませんですね。そういう意味ですよ。座り株。ところがその座り株のね、お知らせに頂いたのが。葉と根のところがちょっと黒いでしょうが首の所が。だからねその黒い所がです。と言う所はいうならば、人間の心の黒い所とでも申しましょうかね。
改まらなければならんという事なんです。御理解にそう頂いた。改まるという事でもです。改まる時に改まっておかないとです、トウが出たらもう駄目だと、神様がお知らせ下ったです。良いですか時期を失する。トウが出てから幾ら黒かとこを削ったっちゃ、もう中に巣がほげとるから駄目だち。ここばいっちょ本気でいっちょ、あんたは改まらにゃと、言われる時にです、本当に改まっとかなければね。そんなら一年後に改まったっちゃ、もう遅かという事 です。
皆さんの心の中にはぁここはいっちょ、おかげを頂かにゃん事は分っとるばってんと言うものがあるならですね。それを言われ続けておる時にです。そんなら今私が合楽で言い続けておる、五つの願いなら五つの願いに、家族を挙げて本気で日参り的信心をさせて貰うてと、今の合楽の信心に便乗して行くという生き方をとらなければ、そんなら一年後に、それば始めたっちゃもう遅かてそん時は。
同じ事のごとあるけれども違うです。どこどこ行きの汽車と言うのが有るならば、もうそれはどこどこ行きに決まっているのですから。東京行きなら東京行きという汽車は決まっておるのですから。東京という事がおかげで有るならば、東京行きが出る時に、乗らなければ、もう今度は、反対の方さんにどん行きますよ。そう言うことになるです。私は昨日その事を頂いてです。成る程改まらせて頂くという事にでも。
時期が有るという事です。改るという事でもです、先生がここばと言よんなさる時に、改まっとかなければ、又は先生が今さぁ五つの願い五つの願いと、口を開けば言うておられる時に、その信心にお互い便乗しておかなければです。一年遅れてそれに便乗したところで、もうそれは東京行きじゃないことになる。もうトウが出てからでは遅かと言う事。そういう意味でです。今日の御理解を頂きますと。この御理解、金光大神の 言う事に背かぬ様にと言う事をです。
深い深い金光大神任せとでも申しましょうかね。それを私は今日は、親先生の言われる事に背かぬようにと、いう風に聞いて貰いました。しかもその背かぬと言う事が、どういうおかげになって来るかと言う事も聞いて貰いました。同時にそんなら今、親先生が言うておられることに合流すると言うか、それに便乗させて貰うという信心こそがです、金光大神の言う事に背かぬように信心をして行くという事じゃないでしょうかね。
どうぞ。